Te-Sera-Sera

はじめまして。てーはやといいます。このブログは国際協力業界で働きながら感じたことや、疑問に感じたことなど、国際協力に関するトピックを中心にしながら、様々な社会問題についても考えてもらうきっかけになればと思い始めました。ちなみにブログのTe-Sera-Seraという意味は、私のあだ名である「てーはや(Te-haya)」のTeと、「何とかなるさ」という意味の「Que Sera Sera」という意味を合わせたのが由来です。

25年。

明けましておめでとうございます。

てーはやです。

17日も経ってこの挨拶はさすがに遅い気しかしないw

 

さて、今日は2020.1.17。

阪神淡路大震災が発生して今日で丸25年になります。

私は当時生まれてまだ弱冠2歳ということもあり、全く記憶がありません。

しかしながら、(主に高校~大学までですが)この時期になると母が当時の状況を語ってくれていました。Facebookには毎年1.17の時期に書いていたものですが、今年はこのブログに書き綴っていきたいと思います。

 

当時両親と私は、浜甲子園にある木造の住宅に住んでいたそうです。隣に外国人が住んでいたようで、隣が騒々しかったと話しているのを覚えています。1995年1月17日5時46分。ドーン!!!という下から突き上げられる感じと激しい縦揺れが私たちが住んでいたアパートを襲いました。兵庫県南部地震阪神淡路大震災)の発生です。幸い当時住んでいたアパートでは火災は発生しなかったものの、木造ということもあって半壊だったそうです。

 

当時はまだ大震災に対する備えがなかったからか、備蓄しているものもなかったようで、家の近くのコンビニエンスストアに行くと、水や食料が真っ先になくなっていたそうです。これはどの時代でも同じですね。

 

母はこの地震を話す度、「お前は縦揺れだったから今生きることができている」ということをよく言われています。曰く、当時住んでた家にはクローゼット等の上にまでは子なりなんなりを積み重ねていたため、それが突っ張り棒の役割を果たしていたからクローゼット等が倒れることがなかったのだとか。真偽のほどは記憶がないので全くわからないのですが、震災発生当時に西宮にいたことも事実だし、今現在生きていることも事実だということも考えると、そうだったのかもしれません。サンキュー箱たち。

 

それから25年。

私自身のことですが、この25年間で多くの大きな地震を経験しました。

平成28年熊本地震

・平成30年度大阪府北部地震

・その他震度5弱以上の地震多数

一番下は皆さんも経験が多いかもしれません。一番びっくりしたのは、新宿の地下か1階かにあるサイゼリヤにいたときに震度5弱地震に遭遇した時はびっくりしました。(笑)

 

この話を友人にすると冗談めかしたように

「ええ~もしかしてお前が地震起こしてんとちゃうん?」

といわれることもしばしばなのですが(笑)、ある人には

「それだけ多くの地震に遭遇しても生きてるってことは強運なんだね!」

ということもいわれるようになりました。

 

確かに。

 

毎年この時期にはとても「生かされている」ということをしみじみと痛感します。

 

今は何の縁か神戸市で勤務をしていますが、普段神戸市の街中を歩いていると震災があったという面影はもはや感じられません。「建物がきれいな街だなあ」「下町ぽい顔があるなあ」というような印象です。

 

しかしそれは多くの方々の努力の結果ということを最近痛感する出来事がありました。

 

去年のある日、仕事の関係でルワンダの方たちと一緒に神戸市にある「人と防災未来センター」という施設に行きました。この建物は、阪神淡路大震災の時の当時の映像を見ることができたり、世界の防災について学ぶことができます。

 

今までこの建物には行く縁がなかったのですが、初めてこの施設を訪れて映像を見たときに衝撃を受けました。毎年この時期に見る阪神高速がなぎ倒された姿、その阪神高速がなぎ倒される前に奇跡的に止まった高速バス、長田区の火災、、、に関してももちろん衝撃です。しかしそれ以上に衝撃だったのは、いわゆる「日常だった光景」(例えば電車に乗りこむ様子、街中を歩いている様子、、、などなど。)が、一瞬にして崩れ去っていく姿を目の当たりにしたことでした。ちなみに一番最初に見学するエリアです。

 

大きな音ともに様々当たり前だと思っていたもの、大事にしていたものが一瞬にして崩れ去っていく様をもし自分が記憶のあるタイミングで見ていたならどのような感情を抱いただろう。何を守ったのだろう。など、色んな事が頭をグルグルとめぐりました。

 

7年前の1.17時、神戸新聞に以下の広告が掲載されました。

 

www.google.com

 

私はこの広告が初めて掲載された時からキャッチフレーズに感動していて、その映像が流れた時にふと、そのキャッチフレーズを思い出しました。

 

「神戸は、強い街だ。

1938年、神戸を水災が襲った。

1945年、神戸を戦災が襲った。

1995年、神戸を震災が襲った。

2013年、神戸はここまできた。」

 

95年の震災から25年。もちろんまだ問題がすべて解決したわけではありません。

しかし復興は着実に進んでいるのではないでしょうか。

 

それぞれの各地には、もちろんですが各地元が大好きで、地元のために頑張ってくださる人がいます。その人たちが頑張ってくれることで、一度ダメージを受けた街でも復興をしていくことができるのだな、と感じます。

 

最後がとてもまとまりのないものになってしまいましたが、

亡くなられた6,434の方々を偲んで

黙祷。