Te-Sera-Sera

はじめまして。てーはやといいます。このブログは国際協力業界で働きながら感じたことや、疑問に感じたことなど、国際協力に関するトピックを中心にしながら、様々な社会問題についても考えてもらうきっかけになればと思い始めました。ちなみにブログのTe-Sera-Seraという意味は、私のあだ名である「てーはや(Te-haya)」のTeと、「何とかなるさ」という意味の「Que Sera Sera」という意味を合わせたのが由来です。

最近の「私刑」について考えてみた話。

 こんにちは。

てーはやです。

 

すっかりと秋が深まり、紅葉の便りもだんだんと届いてくるようになりました。

昨日かおとといには木枯らし一号が吹いたようで、段々と冬将軍の足音も近づいてくるのでしょうか。

 

さて、今年の下半期をにぎわせてる大きな事件の一つに「神戸市立東須磨小学校教師いじめ事件」があります。報道が出てきたときは衝撃で、私もいじめた教師は教壇に立ってほしくない旨のツイートをしました。しかし、現在SNS、特にTwitterでは実名が上がるほどに個人が特定され、その個人に対してこれでもかというくらいに徹底的に叩き潰しています。個人的には「やりすぎ」だと思いますが、なぜこんなにも「容疑者いじめ」が過熱しているのでしょうか…?

 

これらは通称「ネット私刑」といわれていますが、今回はこの「私刑」について考えてみたいと思います。

 

 

構造は正義感からの「教えて君」と「教えてあげる君」だと思う

2015年センター試験現代文の第一問目に、佐々木敦さんが書かれた「未知との遭遇」という本の一部が試験に出題されました。以下は、試験問題からの引用です。

 ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。これはしばしば見られる現象です。たとえば掲示板やブログに「○○について教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる。自分で調べてもすぐにわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。ツイッターでも、ちょっとしたつぶやきに対して「これこれはご存知ですか?」というリプライを飛ばしてくる人がいますが、つぶやいた人は「教えてあげる君」に教えられるまでもなく、それは知っていて、その上でつぶやいたのかもしれない。だから僕は「教えて君」よりも「教えてあげる君」のほうが、場合によっては問題だと思います。

(2015年 センター試験「国語」より佐々木敦未知との遭遇」(問題文の一部を変更しています))

この本の著者はこの後、啓蒙をするよりもされるほうが、自分にとっては利になる(自分自身は啓蒙は他人に任せたいが)が、ネットが普及した昨今ではオリジナルを見つけるのはたやすいため、受け手にもリテラシーが必要であるといったことを「ネット」というなじみやすい例で紹介していました(受験生や、塾でバイトしたことのある人ならこの問題は解いたことあるかもしれません)。

 

やや著者の解釈とは異なってしまうのですが、この構造って個人的には「教えて君」と「教えてあげる君」だと思います。前者の人は問題となる記事を見て、「こんなこと許せない!!私はこんなことをする人を徹底的にたたきたいけど、他の人を巻き込むのはイヤ!だから早く特定班は特定を求む!」という人で、後者はそのツイートもしくは問題となる記事を見ることで「こんな許せない人がいるのか、そしたら個人を特定して、情報を皆に拡散することで徹底的に叩き潰してやる」という人だと思います。両者の利害が一致した結果、「炎上」という形になるのではと考えます。

 

この構造の場合、両者に共通している点というのは「正義感」です。でも「正義感」という感情のそれ以上でもそれ以下でもないと思いますし、ただその感情を使用して、自己満足に浸りたいだけなのだと考えます。もちろん、大前提として私自身も「いじめ」られた経験がある以上、いじめについては到底許されるものではないと思いますし、(今回の場合でいうと)教師たちは十二分に猛省し、二度といじめをしないという誓約をしてほしいです。

 

しかし、教師が教師をいじめたからと言って、いじめた教師をつるし上げるのはそれはまた別問題で、これでは何も構造が変わりません。正義感で個人を特定したSNSアカウントさん(特にTwitterかな?)、

あなたもしてることは

いじめた教師と同じですよ???

 

私刑は法律で禁止されています

そもそも日本では「私刑」は憲法で禁止されています。憲法31条には以下のように規定されています。

第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

e-Gov法令検索

高校の「現代社会」もしくは「政治・経済」で学んだことがあるかもしれませんが、いわゆる「罪刑法定主義」ってやつですね。日本は法治国家のため、法律で定められた手続きによって、その手続きを行う人たち以外には、法律で規定されている以外の罰を与えることができない、という条文です。

 

また、刑法においては「私刑」の禁止を規定する明確な条文はありませんが、例えば「いじめられた両親」を名乗り金品を請求するようなこと(ないかもしれませんしないことを信じたいです)をすれば詐欺罪が成立しますし、また「いじめられた教師の気持ちになれ!!」とって暴力をふるえば暴行罪が成立します。さらに言えば、個人を特定していわれのないことを言ったりすれば名誉毀損罪に該当する可能性だって十分にあります。

 

なので、

三者であるあなたに個人を特定する権利もないですし、

まして精神的に追い詰めるたり、
暴力をふるう権利なんかないですよ???
 

私刑をした結果

下半期を騒がせたもう一つ大きな事件としては、今年の8月に常磐道煽り運転の事件だと思います。その助手席に座っていた女が、ドライブレコーダー越しに被害を受けた車をガラケーで撮影していたことから「ガラケー女」として一時期ニュースに出ていました。この時のニュースに出ていた服装がなんとなく似ているというだけで、見知らぬ人がSNSで誹謗中傷を受けるという悲しい出来事がありました。その拡散には豊田市議も関わっていたようで、その市議は辞職に追い込まれることとなりました。
 
「拡散をする」だけで「私刑」になるのかについては十分な議論がなされていない為何とも言えませんが、今はボタン一つで簡単にリツイートが出来ることもあって、情報を受け取る側の「メディア・リテラシー」が非常に重要になってきていると思います。特に最近は個人的に憂慮するレベルで酷くなっていると思います(と自戒も込めて。。。)。
 
今年の1月から3月にかけて日本テレビ系列で放送していたドラマ「3年A組ー今から皆さんは、人質ですー」の中で菅田将暉演じる柊一颯が最後の最後に演じたシーンの中でこう言ってたことは見ていた人は記憶に残っているのではないでしょうか?
 
…『だから刻んで欲しいんだよ!右にならって吐いた何気ない一言が、相手を深く傷つけるかもしれない。独りよがりに、偏った正義感が、束になることでいとも簡単に人の命を奪えるかもしれないってことを。そこにいる君に!これを見ているあなたに!ひとりひとりの胸に刻んで欲しいんだよ。他人に同調するより、他人をけなすより、まずは自分を律して、磨いて作っていくことが大切なんじゃないのか。ってかそっちの方が楽しいだろう。その目も、口も手も、誰かを傷つけるためにあるわけじゃない!誰かと喜びを分かち合うために!誰かと幸せを噛みしめるためにあるんじゃないのか?そうだろう!もっと人に優しくなろうぜ!もっと自分を大事にしようぜ!』…
このドラマ自体結構私も好きで、毎週欠かさず見ていました。特に私も最後の柊先生の言葉に関しては食い入ってみていました。上記の言葉の通りで、人をけなすことで人生を消費するより、自分のために時間を使う方が絶対に良い。
 
 
メディア・リテラシー云々言う前に、
ネットで情報が溢れていて、何も考えずに情報が手に入る今だからこそ、
考えて行動していきませんか?
 
ということで今日はこの辺で。